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観客と登場人物の、視点の差問題~シン・ゴジラVS君の名は。~

※この記事には、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」に関するネタバレが書かれています。

 

前回から約2ヶ月空きまして、もうここ用の文体があまり思い出せないレベルの久々っぷりですが、まあ頑張って筆をとりましょう。

久々と言えば、東京(の)大学に進学するために引っ越してから、近くに映画館が無くなったので見ていなかった映画を、この夏久々に見まして。

それも二本、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を。

共に今年一番のヒットを狙える一作で、並べて批評する方も多いので、私も自分なりの観点から便乗致します。

 

まず「シン・ゴジラ」ですが、こちらは「虚構にしかいないはずの怪獣が現実に現れたらどうなるか」をリアルに描いた作品として話題になりました。

しかし、いくらリアルさにこだわった作品とはいえ「作品」ですから、現実と違う点が、大きなものとして二つ挙げられます。

一つ目は、当然ながら「ゴジラが出現する」ことで、まあこれについて論じても意味がないので割愛。

重要なのが、「作品としての『ゴジラ』が存在しない世界である」ということです。

つまり、作中の人物はゴジラを見て「ゴジラみたい」と思うことはなく、それを謎の巨大生物としか認識できない(「怪獣」という概念すらないかもしれない)ということです。

さらに議論に合わせて書き換えると、「観客はゴジラを知っているが、作中人物は知らない」という知識の差が存在する、と言えます。

 

このことは、観客の「シン・ゴジラ」の見方に多大な影響を与えます。

最初、閣僚達がゴジラ上陸の可能性を有り得ないと断言するシーンでは、観客は「絶対上陸するし、むしろ上陸してからが本番でしょ」と閣僚を冷ややかに見ます。

そして上陸したゴジラの姿が広告と違うのを見て、観客は「ゴジラの敵サイドかな、これ」と思いますが、作中には二体の怪獣が戦う兆候を感じてわくわくしている存在などいません。

つまり、ゴジラに関する情報の意味が、観客と登場人物との間で異なるということです。

 

これが問題となるのが、空爆が官邸を巻き込むとして、閣僚達が退避するシーンです。

そこで、踏み潰される可能性の無い空なら安全だと、主要閣僚達は皆ヘリに乗り、ゴジラのとっておきである破壊光線によって全滅します。

確かにゴジラを恐竜的存在としか見られない彼らには、まさかゴジラがビームを撃つとは思えない訳ですが、私達はゴジラのビームを知っているため、彼等の末路が手にとるように分かります。

他の人物が有能なのもあり、ヘリを進言したこと、少なくとも首相と官房長官を別の手段で輸送しなかったことが、愚行にすら見えてきます。

 

ここで強調したいのが、もし「シン・ゴジラ」がファンタジーなら、空輸を進言したことを馬鹿だとは思わないだろうということです。

トイ・ストーリーでおもちゃ特有の感覚に「いや(人間の)常識では~」と説教する人がいないように、しかしそれでもおもちゃ達に感情移入できるように、人は「対象が自分と異なる論理で動いていることを認識すれば、それに応じて楽しむ」ことが出来ます。

しかし、「シン・ゴジラ」においては、他の点では自分と同じ論理、常識、感覚を有しているように思える登場人物であるが故に、不気味の谷現象のように、「ゴジラを知らない」ことに違和感を覚えるのです。

 

この「観客と登場人物の視点の差問題」は、「君の名は。」にも通じるところが有ります。

主人公二人は、冒頭20分程かけてやっと入れ替わり現象を自覚するのですが、観客は「入れ替わりモノ」を見にきているので、最初から「今は入れ替わってるな」「今は違いそうだな」という目線で映画を見ます。

そして、「君の名は。」の不味いところは、「シン・ゴジラ」と違い、その差から来る違和感が働くのが、物語の根幹であって主人公二人の感情に対してであるという点です。

この違和感を解消しないと、夢の中での入れ替わりを自覚した際の驚きを鼻で笑われ、それからの二人の努力も鼻で笑われ、惹かれ合う思いも、瀧(男主人公)が三葉(女主人公)の死を知った時の絶望も、それからの奮闘も、観客は冷めた目で見てしまい感情移入出来ません。

 

そこでとられたのが、二度ものオープニングの挿入なのでしょう。

 

この映画は、映画オリジナル作品なのにオープニングがあり、しかも冒頭のオープニングに至っては専用のムービーまで作られている(二回目は、主題歌だけが流れ、その間にも物語は進む)という奇妙な演出がとられています。

しかし、これによって、「観客と登場人物の視点の差問題」が解決されているのです。

 

冒頭のテレビアニメのようなオープニングは、まさに「君の名は。」がアニメにすぎず、フィクションであるということを強調します。

よって、観客は主人公達を「登場人物」として見、自分達とは別の文法で書かれた存在だと再認識します。

故に、彼等が最初入れ替わりを認識していなくても、アニメの中の話だからと違和感は感じません。

しかし、これではずっと「所詮虚構」といった冷めた目で見てしまいます。

これへの対策が、二度目のオープニングです。

 

二度目のオープニングは、主人公二人が入れ替わりを自覚した瞬間から始まり、先述の通り主題歌が流れる以外は普通に二人とも喋るので、オープニング中も物語が進みます。

つまり、このオープニングは、「ここから感情移入してください」のサインを、アニメっぽい本編と関係無い映像を流さないことで、「虚構だと冷ややかに見るのはここまでだよ」と、逆説的に観客の無意識へ伝えるものだったのです。

これを見た観客は、自分達と同じ知識、入れ替わりの存在への認識を持つ主人公達に感情移入し、彼等と同様の論理で考え、そして感動するのです。

 

勿論、「観客と登場人物の視点の差問題」への対処の有無のみで、この二作の優劣を語る気はありません。

シン・ゴジラ」は徹底的にリアリティーを追求した作品なので、そこに「第二部、開始」といったオープニングを入れれば興醒めは必至ですし、そうするまでもない程に「シン・ゴジラ」の「観客と登場人物の視点の差問題」は枝葉です。

むしろ、虚構の文法に基づく演出が必要となるような問題を本筋に絡めないことでリアリティーをより追求できた、そう評価することも出来ます。

重要なのは、この夏話題の二作が共に「観客と登場人物の視点の差問題」を抱えており、その対処が真逆なのに共に正しいということです。

 

この問題は、全ての創作作品に起こりうる問題です。

よって、まずこの問題の存在を自覚し、そして自分の作品ではそれを解消すべきか、解消するならどうするのか、それを考えるべきではないかと思うのです。