紙魚の餌にも成らぬもの

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「研究は役に立たない」という一発ギャグ

先日、例年通り日本人がノーベル賞を受賞し、話題となった。

そして、受賞した大隅氏は、例年通り一見役に立たない科学の重要性を訴えた。

それを受け、ネット上でも、例年通り基礎研究に予算をもっと回すべきだと議論が巻き起こった。

そう、全て「例年通り」の出来事だ。

私は、このマンネリすら感じる流れに、危機感を覚えている。

 

冷静に考えれば誰でも分かることだが、例年同じ議論が起こり、それでも現状が変わらないならば、その議論は意味がないのである。

つまりここ数年、一見役に立たない基礎研究への予算の少なさを嘆く人々は、正真正銘役に立たない方法でしか抗議していないのである。

これでは、基礎研究の予算が増えないのも当然である。

では、そもそも何故この「一見役に立たない研究が重要」という議論は役立たずなのだろうか。

 

まず、「役に立たないけど大事」なものが、どう大事なのかが伝えきれていないことが挙げられる。

詳しく述べると、役に立たない研究が大事な理由を「何が役に立つか分からないから」としか説明できていないため、「役に立つか」という価値基準からは抜けられていないのだ。

大隅氏も、「『役に立つ』という言葉はとても社会をダメにしていると思っています」と発言しているにも関わらず、直後には「本当に役に立つことは10年後かも20年後かもしれないし、実をいうと100年後かもしれない」と、役に立つかどうかという基準で基礎研究の重要性を説いている。

このため、「役に立たないけど大事」が逆説表現でしかなくなってしまっているのだ。

 

そしてこの逆説性は、それがマンネリ化する程、その悪影響の方が目立つようになる。

逆説表現は、一目見ただけでは真意が分からず、深く考えて初めて分かるものだ。

しかし、その表現が毎年使われると、「はいはい、科学は役に立たない」という風に、まるで定番の一発ギャグでも見るような反応になる。

結果、発言が浅くしか捉えられず、意味が分からないという役立たずな側面だけが残るのだ。

 

そもそも、「役に立たない」という台詞の意味を、話す側がしっかり考えていないのがまずい。

予算を増やせというならば、その訴えは政治家へのものでなければならない。

では問うが、政治家達が役に立たないものに予算を落とすだろうか?

政治家の仕事の一つは予算のムダを切り捨てることであり、ならば役に立たない科学への予算は喜んで切り捨てるだろう。

つまり、「科学は役に立たない」発言は、理想しか見ておらず、政治家という商売相手を一切見ていない発言なのだ。

そんな相手を考えない戦略0の発言で、予算がもらえるわけがないのだ。

 

では、研究の予算を増やすためには、どうしたらいいのだろうか。

そのために大事なのは、研究者が予算を得るためには戦略が必要なのだと、理解することだろう。

研究者、特に基礎研究を行う研究者が成功するためには、誰もが諦めるような果てしない夢を追い続ける能力が重要だ。

しかし、国から予算を得るためには、理想論では動かない現実と戦う必要がある。

そのことに研究者がとらわれるのは損失が大きいが、せめてそういった現実との戦い方を知っている者に、協力を要請できないものか。

政治家や国民の心を動かす、そんな方法を知る者に、発言の校正を頼めないものか。

もちろん、研究者の理想に皆が納得してくれるのがまさしく理想ではあるが、そんな考え方が出来ること自体が特殊能力だからこそ、研究者は役立たずではなく価値ある専門家として認められているのだ。

そういった現実を受け止め、泥臭くても予算を奪い取ることが必須な時代になっているのではないか。

 

少なくとも、もう「科学は役に立たない」という一発ギャグをしたり顔で繰り返せば好転する程、事態が楽観視出来ないのは確かだ。

 

大隅氏の発言は、http://logmi.jp/162398?pg=4 より引用致しました。