紙魚の餌にも成らぬもの

日々の戯れ言を、紙を消費せずに消費する場

「一億総作家化計画」の失敗

今更、あえてSNSを語ろう。

私は、こんなブログなどやりながらも筆無精なので、twitterやLINEすら今年に入ってやりだしたほど、SNSとは距離をおいてきた。
Facebookに至っては、偽名でアカウントだけ取得して、一度も投稿したことがない。
(そもそも、投稿したことがないせいで、twitterの「呟く」のように「Facebookで投稿する」を意味する動詞があるのかすら知らない)
しかし、SNSが流行しだした3、4年程前から、考えていたことがある。
それは、SNSによって、日本国民全員が作家となるのではないかということだ。

ここでの「作家」とは、本を書いて売って暮らして、という人達のことではない。
辞書的に定義すれば、「自らの文体の存在および特徴を自覚し、それに基づきながらも工夫しつつ文章を作成して他者に発信する者」のことを指している。

前提として、SNS、特に日本で最も流行ったであろうtwitterには、いくつか特徴がある。
まず第一に、無数の他人の文章を見る機会を、今までのブログ等よりはるかに多く与えてくる。
また、自分の文章も、誰かのたった1回のリツイートで、不特定多数の目に触れることとなる。
よって、今までよりもさらに、他者と自己との文の差異を意識して文章を書くこととなると思われた。

また、字数制限も大きな特徴だ。
140字という少ない文字数、さらに複数のツイートに分けて一気に投稿する連投を無作法とする風潮により、人々は、140字から多くとも400字程度までで主張をまとめ上げる必要に迫られた。
このことにより、文字数を減らすため、自らの文体を見直す人も多くいるだろうと考えていた。

故に、twitterの流行と共に、日本に多様な文体が溢れ、国民の文への意識が高まり、「猿でも書ける名文」みたいなハウツー本が飛ぶように売れ、所謂作家への批評が厳しくなり、作家は仕事としてみなされなくなるのではとすら考えた。
まるで、文科省が「一億総作家化計画」でも計画しているのではないかとすら思ったものだ。
(蛇足だが、この「一億総作家化計画」、「さっかか」という悲惨なまでの語呂の悪さが役所仕事臭くて、個人的に気に入っている)

しかし、現実は違った。
作家は仕事として生き残り、「猿でも書ける名文」は発売されず、国民の文体への意識の高まりは見受けられない。
何故か。

その答えは、やはり140字という字数制限にあるだろう。
twitterを始めて分かったことだが、140字という字数は、感想や出来事を語る日記的用途においてはむしろ多すぎるぐらいであった。
つまり、制限されていないのだから、変わる必要がなかったのだ。
そして、日本人は、何かを批評することより、日記としてtwitterを使ってしまった。
結果、人々がその文体を自省することはなかった。

さらに、人を楽しませるためのツイートには、所謂「キチツイ」のようなテンプレートが出来てしまった。
それらのテンプレート自体は、twitterという新たな媒体が生んだ新たな文体ではあるが、しかし、一人一人が独自の文体を生み出すことは、むしろ阻害してしまったのだ。


今、twitterではキチツイブームも終息し、新たな「文体」を作る必要が生じている。
そんな時代において、新たなテンプレートではなく、各自が新たな文体を作り上げてくれることを、文体の愛好家として祈っている。