娯楽の階層化、という表現のデザイン
文体が変わる云々を枕にしていたのも今や昔。
もはや文体どころか自らのIDすら忘れるほどに久しい更新となりましたが、意外にも未だに閲覧されている方がいらっしゃるらしく、ならばと筆をとった次第。
しかし、本当に90日放置するとあの広告出るんですね、びっくり。
さて枕はまだ続くのだが、先日ようやく銀魂の実写映画を見ることができた。
最初からかなり火力のあるパロディをぶちかまし、さらには本筋とほぼ絡まないギャグエピソードからスタートするなど、非常に思い切った大変素晴らしい出だしであった。
長い原作を実写に落とし込む際、尺の中で整合性をとりつつ作品らしさを残すというかなりの困難が待ち受けるわけだが、本作では説明不足上等で「らしさ」を守っており、その大胆さが銀魂という作品にとても合っていたと感じた。
また、終盤は派手な絵面で映画らしく仕上がっており、しかし時折挟まれるギャグが切れ味よく銀魂であることを思い出させてくれ、銀魂という作品の実写映画化として、一つの正解を見せてくれていたと思えた。
そして、そのギャグエピソードとシリアスを繋ぐ中盤…
はっきり言って、ここは最悪クラスの出来であった。
まず、単純にテンポが悪い。
パロディと勢いで笑わせる序盤からうってかわって天丼ネタが続き、いわば天丼の天丼のようになっており流石に胃もたれがする。
また銀魂の特徴として長いツッコミがあるのだが、これが天丼に重なることで、話の勢いにさらにブレーキをかける。
そのうえ、漫画ではコマ割りで緩急をつけられるところを、映画では小手先に頼らず普通の映画らしいカメラワークで撮影されていたため、余計にやりとりが長く感じる。
これらの相乗効果により、映画の半分で体感時間が2時間を超え、これは前後編の映画なのかと錯覚するほどの間延びさを感じてしまった。
そして、ギャグとシリアスとの間にメリハリがなさすぎた。
これは前述したギャグの切れの悪さに起因するところが大きく、また具体例を挙げるとネタバレになるため書きにくいのだが、全体的に「これはギャグか?シリアスか?どっちだ…??」となりながら見てしまうため、どちらの描写も中途半端にしか楽しめなかったというのが個人の感想である。
「銀魂のシリアスはつまらない」とはよく言われる批評だが、そこまで原作再現をしてしまったのかと感じてしまった。
さてここまでではただのチラシの裏なので、これをどう改善するか、もっと正確な言い方をするならば、これをどう教訓として自らの作品等につなげるかを考えたい。
ここで重要となるのは、顧客をいかに飽きさせないかということだろう。
上ではかなり批判したものの、実際最初にキャラの説明ではなく笑いから入る構成は見事であるし、その勢いで押し切る笑いだけでは息切れするからとシリアス、正確に言えば映画的な見せ方へと舵を切ったのも正しい判断だと思う。
問題は、その漫画的(原作銀魂的)娯楽と映画的娯楽との間を、どう繋げば中だるみせずに顧客を満足させられるかであろう。
さあここまで抽象化すれば、これが実写映画のみならず、あらゆる表現に応用可能な命題であると感じられるのではないだろうか。
そして、この課題を解決するための糸口となるのではないかと考えているのが、娯楽の階層化である。
これは、娯楽には軽い娯楽と重い娯楽というのがあり、その軽重に応じたタイミングというのがあるので適切に使いましょう、という考え方である。
もう少し説明すると、軽ければ軽いほど即時的に楽しめるが快感が小さく序盤に向き、重ければ重いほどに満足感が高まるが快感まで時間や労力がかかるため終盤に適している、といった具合である。
(ただし、この区別はあくまでそれ単体の評価であり、かつそれぞれの娯楽の尊卑には言及していないことは念のため明記しておく。)
これは、海外ではicebreaker等ある程度普及した考え方に思えるが、日本ではたまに新発見のように取り上げられるので、あまり広まっていないのかもしれない。
先程の例で例えるならば、一瞬で笑えるギャグは軽い娯楽、映画的なシリアスは重い娯楽と言えるだろう。
そしてその中間の重さの娯楽が中盤の天丼およびシリアスパートということになるが、こう分析すると、上記の二つの間をうまくつなげておらず、急に娯楽の重さが上がって振り落とされるような構造になっているように思えてはこないだろうか。
そう、例えば殺陣などのアクションパート、実際の映画では後半に固まっていたが、このような中程度の娯楽を早めに挟むことで、観客のボルテージを着実に上げていき、冷めさせずに終われたのではないかと私は思う。
(もちろん中盤にアクションを入れることで生じる問題もあるし、監督や脚本の方々は十分承知の上でこうしたのだとは思うが、一つの対案として目をつぶっていただきたい。)
そして、こうした娯楽の重さによる階層化は、前述の通りあらゆる娯楽に通じる考えである。
現在私は休みを利用して色々な娯楽に手を出しているのだが、一部は面白いのになんとなく満足しきれない作品を分解すると、たいていこの重さの流れがよどんでいるように感じる。
逆に、乗り遅れる感覚を覚えずに最後まで楽しめた作品は、この流れが非常によくできており、勉強となることが多い。
これさえ満たせば佳作になるとまで言う気はないが、それ相応の影響力を持った指標であるとは言えそうである。
こういう表現論を書くと今後の文章のハードルが上がるのが嫌なのだが、まずは広告が出ないよう、季刊程度には書くようにしたい。
「研究は役に立たない」という一発ギャグ
先日、例年通り日本人がノーベル賞を受賞し、話題となった。
そして、受賞した大隅氏は、例年通り一見役に立たない科学の重要性を訴えた。
それを受け、ネット上でも、例年通り基礎研究に予算をもっと回すべきだと議論が巻き起こった。
そう、全て「例年通り」の出来事だ。
私は、このマンネリすら感じる流れに、危機感を覚えている。
冷静に考えれば誰でも分かることだが、例年同じ議論が起こり、それでも現状が変わらないならば、その議論は意味がないのである。
つまりここ数年、一見役に立たない基礎研究への予算の少なさを嘆く人々は、正真正銘役に立たない方法でしか抗議していないのである。
これでは、基礎研究の予算が増えないのも当然である。
では、そもそも何故この「一見役に立たない研究が重要」という議論は役立たずなのだろうか。
まず、「役に立たないけど大事」なものが、どう大事なのかが伝えきれていないことが挙げられる。
詳しく述べると、役に立たない研究が大事な理由を「何が役に立つか分からないから」としか説明できていないため、「役に立つか」という価値基準からは抜けられていないのだ。
大隅氏も、「『役に立つ』という言葉はとても社会をダメにしていると思っています」と発言しているにも関わらず、直後には「本当に役に立つことは10年後かも20年後かもしれないし、実をいうと100年後かもしれない」と、役に立つかどうかという基準で基礎研究の重要性を説いている。
このため、「役に立たないけど大事」が逆説表現でしかなくなってしまっているのだ。
そしてこの逆説性は、それがマンネリ化する程、その悪影響の方が目立つようになる。
逆説表現は、一目見ただけでは真意が分からず、深く考えて初めて分かるものだ。
しかし、その表現が毎年使われると、「はいはい、科学は役に立たない」という風に、まるで定番の一発ギャグでも見るような反応になる。
結果、発言が浅くしか捉えられず、意味が分からないという役立たずな側面だけが残るのだ。
そもそも、「役に立たない」という台詞の意味を、話す側がしっかり考えていないのがまずい。
予算を増やせというならば、その訴えは政治家へのものでなければならない。
では問うが、政治家達が役に立たないものに予算を落とすだろうか?
政治家の仕事の一つは予算のムダを切り捨てることであり、ならば役に立たない科学への予算は喜んで切り捨てるだろう。
つまり、「科学は役に立たない」発言は、理想しか見ておらず、政治家という商売相手を一切見ていない発言なのだ。
そんな相手を考えない戦略0の発言で、予算がもらえるわけがないのだ。
では、研究の予算を増やすためには、どうしたらいいのだろうか。
そのために大事なのは、研究者が予算を得るためには戦略が必要なのだと、理解することだろう。
研究者、特に基礎研究を行う研究者が成功するためには、誰もが諦めるような果てしない夢を追い続ける能力が重要だ。
しかし、国から予算を得るためには、理想論では動かない現実と戦う必要がある。
そのことに研究者がとらわれるのは損失が大きいが、せめてそういった現実との戦い方を知っている者に、協力を要請できないものか。
政治家や国民の心を動かす、そんな方法を知る者に、発言の校正を頼めないものか。
もちろん、研究者の理想に皆が納得してくれるのがまさしく理想ではあるが、そんな考え方が出来ること自体が特殊能力だからこそ、研究者は役立たずではなく価値ある専門家として認められているのだ。
そういった現実を受け止め、泥臭くても予算を奪い取ることが必須な時代になっているのではないか。
少なくとも、もう「科学は役に立たない」という一発ギャグをしたり顔で繰り返せば好転する程、事態が楽観視出来ないのは確かだ。
※大隅氏の発言は、http://logmi.jp/162398?pg=4 より引用致しました。
観客と登場人物の、視点の差問題~シン・ゴジラVS君の名は。~
※この記事には、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」に関するネタバレが書かれています。
前回から約2ヶ月空きまして、もうここ用の文体があまり思い出せないレベルの久々っぷりですが、まあ頑張って筆をとりましょう。
久々と言えば、東京(の)大学に進学するために引っ越してから、近くに映画館が無くなったので見ていなかった映画を、この夏久々に見まして。
共に今年一番のヒットを狙える一作で、並べて批評する方も多いので、私も自分なりの観点から便乗致します。
まず「シン・ゴジラ」ですが、こちらは「虚構にしかいないはずの怪獣が現実に現れたらどうなるか」をリアルに描いた作品として話題になりました。
しかし、いくらリアルさにこだわった作品とはいえ「作品」ですから、現実と違う点が、大きなものとして二つ挙げられます。
一つ目は、当然ながら「ゴジラが出現する」ことで、まあこれについて論じても意味がないので割愛。
重要なのが、「作品としての『ゴジラ』が存在しない世界である」ということです。
つまり、作中の人物はゴジラを見て「ゴジラみたい」と思うことはなく、それを謎の巨大生物としか認識できない(「怪獣」という概念すらないかもしれない)ということです。
さらに議論に合わせて書き換えると、「観客はゴジラを知っているが、作中人物は知らない」という知識の差が存在する、と言えます。
このことは、観客の「シン・ゴジラ」の見方に多大な影響を与えます。
最初、閣僚達がゴジラ上陸の可能性を有り得ないと断言するシーンでは、観客は「絶対上陸するし、むしろ上陸してからが本番でしょ」と閣僚を冷ややかに見ます。
そして上陸したゴジラの姿が広告と違うのを見て、観客は「ゴジラの敵サイドかな、これ」と思いますが、作中には二体の怪獣が戦う兆候を感じてわくわくしている存在などいません。
つまり、ゴジラに関する情報の意味が、観客と登場人物との間で異なるということです。
これが問題となるのが、空爆が官邸を巻き込むとして、閣僚達が退避するシーンです。
そこで、踏み潰される可能性の無い空なら安全だと、主要閣僚達は皆ヘリに乗り、ゴジラのとっておきである破壊光線によって全滅します。
確かにゴジラを恐竜的存在としか見られない彼らには、まさかゴジラがビームを撃つとは思えない訳ですが、私達はゴジラのビームを知っているため、彼等の末路が手にとるように分かります。
他の人物が有能なのもあり、ヘリを進言したこと、少なくとも首相と官房長官を別の手段で輸送しなかったことが、愚行にすら見えてきます。
ここで強調したいのが、もし「シン・ゴジラ」がファンタジーなら、空輸を進言したことを馬鹿だとは思わないだろうということです。
トイ・ストーリーでおもちゃ特有の感覚に「いや(人間の)常識では~」と説教する人がいないように、しかしそれでもおもちゃ達に感情移入できるように、人は「対象が自分と異なる論理で動いていることを認識すれば、それに応じて楽しむ」ことが出来ます。
しかし、「シン・ゴジラ」においては、他の点では自分と同じ論理、常識、感覚を有しているように思える登場人物であるが故に、不気味の谷現象のように、「ゴジラを知らない」ことに違和感を覚えるのです。
この「観客と登場人物の視点の差問題」は、「君の名は。」にも通じるところが有ります。
主人公二人は、冒頭20分程かけてやっと入れ替わり現象を自覚するのですが、観客は「入れ替わりモノ」を見にきているので、最初から「今は入れ替わってるな」「今は違いそうだな」という目線で映画を見ます。
そして、「君の名は。」の不味いところは、「シン・ゴジラ」と違い、その差から来る違和感が働くのが、物語の根幹であって主人公二人の感情に対してであるという点です。
この違和感を解消しないと、夢の中での入れ替わりを自覚した際の驚きを鼻で笑われ、それからの二人の努力も鼻で笑われ、惹かれ合う思いも、瀧(男主人公)が三葉(女主人公)の死を知った時の絶望も、それからの奮闘も、観客は冷めた目で見てしまい感情移入出来ません。
そこでとられたのが、二度ものオープニングの挿入なのでしょう。
この映画は、映画オリジナル作品なのにオープニングがあり、しかも冒頭のオープニングに至っては専用のムービーまで作られている(二回目は、主題歌だけが流れ、その間にも物語は進む)という奇妙な演出がとられています。
しかし、これによって、「観客と登場人物の視点の差問題」が解決されているのです。
冒頭のテレビアニメのようなオープニングは、まさに「君の名は。」がアニメにすぎず、フィクションであるということを強調します。
よって、観客は主人公達を「登場人物」として見、自分達とは別の文法で書かれた存在だと再認識します。
故に、彼等が最初入れ替わりを認識していなくても、アニメの中の話だからと違和感は感じません。
しかし、これではずっと「所詮虚構」といった冷めた目で見てしまいます。
これへの対策が、二度目のオープニングです。
二度目のオープニングは、主人公二人が入れ替わりを自覚した瞬間から始まり、先述の通り主題歌が流れる以外は普通に二人とも喋るので、オープニング中も物語が進みます。
つまり、このオープニングは、「ここから感情移入してください」のサインを、アニメっぽい本編と関係無い映像を流さないことで、「虚構だと冷ややかに見るのはここまでだよ」と、逆説的に観客の無意識へ伝えるものだったのです。
これを見た観客は、自分達と同じ知識、入れ替わりの存在への認識を持つ主人公達に感情移入し、彼等と同様の論理で考え、そして感動するのです。
勿論、「観客と登場人物の視点の差問題」への対処の有無のみで、この二作の優劣を語る気はありません。
「シン・ゴジラ」は徹底的にリアリティーを追求した作品なので、そこに「第二部、開始」といったオープニングを入れれば興醒めは必至ですし、そうするまでもない程に「シン・ゴジラ」の「観客と登場人物の視点の差問題」は枝葉です。
むしろ、虚構の文法に基づく演出が必要となるような問題を本筋に絡めないことでリアリティーをより追求できた、そう評価することも出来ます。
重要なのは、この夏話題の二作が共に「観客と登場人物の視点の差問題」を抱えており、その対処が真逆なのに共に正しいということです。
この問題は、全ての創作作品に起こりうる問題です。
よって、まずこの問題の存在を自覚し、そして自分の作品ではそれを解消すべきか、解消するならどうするのか、それを考えるべきではないかと思うのです。